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改正された緊急事態条項の危険

『世界』(2018年11月号)
「改正された緊急事態条項の危険」

「改正された緊急事態条項の危険」
 (以下は『世界』(2018年11月号)の原稿を加筆修正したものです)

第1 条文イメージ(たたき台素案)

 平成30年3月24日に、自民党憲法改正推進本部は「条文イメージ(たたき台素案)」として、緊急事態条項(73条の2)と、議員の任期延長(64条の2)についての憲法改正案を提示した(以下「新自民党案」)。新自民党案は、平成24年版の自民党の「日本国憲法改正草案」(以下「旧自民党案」)(98条、99条)より権力の集中と人権の制約が容易になり権力濫用の危険が高まっただけでなく、民主主義を根底から覆す恐れのあるものである。しかし、条文の数が減ったこと等から危険性が薄れたような印象を与え、また、「たたき台素案」とあることから未だ検討の段階ではないと考えられ、憲法記念日にもほとんど議論がなされていない。筆者は阪神・淡路大震災以降23年間、災害関連法規にかかわってきた「災害族」の弁護士として、本誌平成27年7月号で、旧自民党案について反対意見を述べたものである。安倍首相が本年秋の臨時国会で自民党の憲法改正案を提出する考えを示していることから、本稿においても新自民党案について以下に反対意見を述べさせていただく。

第2 自民党案.73条の2(緊急事態条項)

1 国家緊急権

   緊急事態条項とは「国家緊急権」を憲法に創設する条項と一応定義できる。国家緊急権とは、戦争・内乱・恐慌ないし大規模な自然災害になど、平時の統治機構をもってしては対処できない非常事態において、国家権力が、国家の存立を維持するために、立憲的な憲法秩序(人権の保障と権力分立)を一時停止して非常措置を執る権限を言う。すなわち、非常事態において、国家のために、憲法の定める人権保障と権力分立を停止する制度である。

   人権とは、人が自立的な個人として、自由と生存を確保し、尊厳を持って生きるために不可欠な基本的権利を言う。人々は自らの権利自由を確実なものとするために憲法によって国家を組織し、統治権の行使を政府に委任した。そして、この統治権力が1点に集中して強大になると権利自由を侵害する危険があるので、立法、行政、司法に権力を分割して、それぞれ異なる機関に担当せしめ、相互に他を抑制させることにした。これが権力分立である。権力分立の最も重要な趣旨は権力に対する懐疑にある。天使ならいざ知らず、人は何時も権力を獲得したがる弱点を持っており、従って権力を握ると濫用する性向があるということである。権力分立は人間の本性への深い反省と権力に対するリアルな認識による、いわば「大人の制度」なのである。

これに対して、国家緊急権は国家の存立のために人権保障と権力分立(立憲主義)を一時停止する制度であり、そこでは極度の権力集中と、過度の人権制限が認められている。言い換えれば、国家緊急権は、平時の制度では対処できない非常事態に対処するものであり、その限りで必要性があるとも考えられるが、他方で立憲的憲法秩序すなわち人権保障と権力分立を一時的にせよ停止することからその危険性は極めて高く、「諸刃の剣」といわれている。

2 新自民党案

 新自民党案73条の2は「大地震その他の異常かつ大規模な災害により、国会による法律の制定を待ついとまがないと認める特別の事情があるときは、内閣は、法律で定めるところにより、国民の生命、身体及び財産を保護するため、政令を制定することができる。」「内閣は、前項の政令を制定したときは、法律で定めるところにより、速やかに国会の承認を求めなければならない」と規定する。

3 政令の効力

(1)執行命令・委任命令

新自民党案73条の2は、内閣は「法律で定めるところにより」政令を制定することができると規定する。「政令」とは内閣が制定する命令である。そして、「命令」とは行政機関が行う立法の形式であり(狭義の命令)、「唯一の立法機関」(憲法41条)たる国会の行う立法からすれば、例外的な権限である。それ故に憲法上内閣の発する政令は、立法権そのものを行使(簒奪)することは許されず、国会の定める法律の細則を定める政令か(執行命令)、または、個別具体的な委任にもとづく政令(委任命令)しか許されない(73条6号)。

   従って、新自民党案73条の2の政令は、憲法を改正してまで創設しようとするものであるから、現行憲法73条6号で認められる執行命令や委任命令と同じ効力を有するとは考えがたい。すなわち、新自民党案が、「国会による法律の制定を待ついとまがない」とき内閣は「政令を制定できる」(73条の2、1項)、内閣は「政令を制定したときは」「速やかに国会の承認を求めなければならない」(73条の2、2項)と内閣に法律に代わる命令の制定権を認めていることからすれば、旧憲法の国家緊急権である「法律に代わるべき勅令」、すなわち緊急勅令(8条)を復活させたものであり、政令は法律と同じ効力を有するものと解すべきである。

(2)法律の定め

前記の通り、73条の2は「法律で定めるところにより」政令を制定することができると規定するので、法律の規定によっては政令の性質を執行命令あるいは委任命令であり効力が法律より劣るとすることは可能である。しかし、仮にこのような法律を制定したとしても、国会の各議院の出席議員の過半数の議決でこれを変更することができるから、憲法に上記の規定が定められていない限り政令の効力が法律に劣ると言うことはできない。そして、権力分立の趣旨が人はいつも権力を獲得したがる弱点を持っており、権力を握ると濫用する性行があるということからすれば、改憲案については権力濫用の危険性の高い場合を念頭において解釈すべきである。

 

4 国家緊急権発動の手続の欠如

(1)新自民党案

新自民党案には、国家緊急権発動の手続が規定されていない。例えば、内閣の緊急事態の宣言、緊急事態の宣言に対する国会の承認や、緊急事態宣言の国会等の解除の手続等のような国会による統制の規定が全く欠如している。

筆者が反対意見を述べた旧自民党案でさえ、内閣総理大臣の緊急事態の宣言の事前又は事後に国会の承認を必要とし、また、国会の決議や内閣の認定による緊急事態宣言解除の手続があった(98条1項〜3項)。緊急事態の宣言によって、国家緊急権が発動されたこと、その効力が持続しているということを国民が知ることができ、また、国家緊急権の発動と持続に対する国会の統制があったのである。

これに対して新自民党案は国家緊急権発動の手続が無くなり、従ってこれに対する国会の統制も存在しなくなった。内閣の閣議決定だけで国民の知らない間に緊急事態条項が発動でき、しかも国民の知らない間にそれを維持できるのである。

(2)法律の定め

新自民党案73条の2では「法律で定めるところにより」政令を制定するので、法律によっては国家緊急権発動の手続を設ける可能性もある。しかし、前記の通り、仮に国家緊急権発動の手続を法律で制定したとしても、国会の各議院において出席議員の過半数の議決でこれを変更できるから、憲法に国家緊急権発動の手続規定が定められてない限り実効性はない。また、権力分立の趣旨からすれば、改憲案については濫用の危険性の高い場合を念頭において解釈すべきである。このことは、以下に述べる国家緊急権の発動の要件、国家緊急権の発動期間の制限、立法事項についても当てはまることである。

 

5 広すぎる国家緊急権発動の要件

 国家緊急権発動の要件は「大地震その他の異常かつ大規模な災害により、国会による法律の制定を待ついとまがないと」内閣が認定したときである。

本来法律の制定権は主権者たる国民の代表である国会にあるので、国家緊急権発動の要件は国会が機能しない特別な場合に限られるはずである。例えば、災害対策基本法の「緊急政令」の発動要件は、国会が閉会中や衆議院が解散中で、臨時国会の召集や参議院の緊急集会の請求が出来ない時に限定されている(109条)。筆者は旧憲法の緊急勅令の復活に反対するものであるが、緊急勅令でさえ議会閉会中という限定があった(8条1項)。新自民党案にはこのような限定が無く、国会が現に活動している会期中でも国会を無視して立法できるのである。

また、要件の認定権者は国会ではなく、内閣、すなわち政府である。事実はともかく「災害により」「国会による法律の制定を待ついとまがない」と政府が評価すれば発動できる。例えば、災害関連法規の制定のときに国会で審議が紛糾した場合「災害により」「国会による法律の制定を待ついとまがない」と政府が判断すれば要件を満たすことになりうる。

 

6 武力攻撃事態への適用

更に、国家緊急権が発動できる場合は「自然災害」ではなく「災害」とされている。災害対策基本法は「災害」とは「暴風、竜巻、豪雨、豪雪、洪水、崖崩れ、土石流、高潮、地震、津波、噴火、地滑りその他の異常な自然現象又は大規模な火事若しくは爆発その他及ぼす被害の程度においてこれらに類する政令で定める原因により生ずる被害」と定め(2条1号)、災害対策基本法施行令1条は「政令で定める原因」として「放射性物質の大量の放出、多数の者の遭難を伴う船舶の沈没その他の大規模な事故」を定めており、「災害」には自然現象のみでなく人為的な事故も含んでいる。そして、国民保護法では「武力攻撃災害」(2条4項)、すなわち、「武力攻撃により直接又は間接に生ずる人の死亡又は負傷、火事、爆発、放射性物質の放出その他の人的又は物的災害」という概念がある。このように法律の解釈として「災害」には人為的な事故が含まれており、「武力攻撃災害」も含まれている。従って、新自民党案の緊急事態条項は武力攻撃災害があった場合にも「災害」であるとして政令を制定することが可能である。

 

7 国家緊急権発動の期間制限がないこと

新自民党案の国家緊急権には発動期間の限定がない。権力の濫用を防ぐために厳格な期間の制限が必要である。筆者が反対している旧自民党案でさえ、100日(これは長すぎるが)を超えて緊急事態宣言を継続するときは国会の承認を必要とした(99条3項)のである。

 

8 政令事項の限定がないこと

新自民党案は立法できる事項について限定がほとんどない。「国民の生命、身体及び財産を保護するため」であればどのような政令も制定できる。例えば、「国民の生命、身体及び財産を保護するため」に、安保法制を政令で改定して集団的自衛権を強化することや、テロ対策のために共謀罪の法律を政令で改定して厳罰化することが可能である。

また、政令事項は災害に限定する必要はない。新自民党案の「大地震その他の異常かつ大規模な災害により、国会による法律の制定を待ついとまがないと認める特別の事情があるとき」とは国家緊急権の発動の要件であり、政令事項の要件ではないからである。「災害」は政令事項の要件でもあると解釈することも不可能ではないが、前記の通り権力分立の趣旨からすれば、改憲案は濫用の危険性の高い場合を念頭に置いて解釈すべきである。

最も制限される可能性が高いのが政府を監視する機能のある報道機関の報道の自由や通信の秘密である。罰則付きの報道や通信の制限立法によって報道機関が著しく萎縮し、国民の知る権利に奉仕することができなくなれば、民主主義の根幹を脅かすことになる。

 

9 国会が不承認でも効力失われないこと

新自民党案73条の2は、内閣は政令を制定後、「速やかに国会の承認を求めなければならない」と定めるが、国会が承認しなかった場合には政令が効力を失うとは定めていない(73条の2、2項)。前記の通り、筆者は旧憲法の緊急勅令の復活に反対するものであるが、この緊急勅令にさえ議会の承認が無いと将来に向かって効力を失うと定めていたのである(8条)。新自民党案では国会が承認しなくても、政令の効力は依然として継続するのであり、たとえ政治責任が問題にとされても法的には問題ないとされるのである。

国会が不承認でも効力失われないことは、国会の内閣の立法へのコントロールを失わせるものであり、内閣の権力濫用の危険が高まり、国民主権を根底から覆す恐れがある。緊急事態条項は「政府独裁条項」というべきものである。

 

10 立法事実(憲法改正の正当性を支える社会的事実)の不存在

(1)災害対策の原則

災害には災害対策の原則がある。「準備してないことはできない。」ということである。国家緊急権は災害が発生した後に泥縄式に権力を集中する制度であるが、災害発生後にどのような強力な権力を集中しても災害に対応することはできない。東日本大震災では、福島第一原子力発電所から4.5qの双葉病院で、避難の前後に50名の寝たきり高齢者が死亡した。災害対策基本法には自治体の地域防災計画の策定、防災訓練の実施などが規定されているが、原発事故は事実上起こらないことになっていた。そのため、自治体は県境を越えた避難ルートの策定や避難訓練の実施、バスやドライバーの確保、避難した後の一定期間の避難者の生活の場である避難所・仮設住宅等を整備していなかった。このような事前の不備が原因であり、災害が発生してから権力を集中しても何もできない。

(2)現行法の整備

また、災害に関する法律は既に十分に整備されている。内閣には災害緊急事態に、国会の厳重なコントロールのもとで物価の上限や生活必需物資の配給など4つの事項に限り罰則付きの政令(緊急政令)の制定権が認められており(但し直ちに国会を招集し承認がないと効力を失う)、又、内閣総理大臣には防衛大臣に対する部隊派遣要請ができ、警察庁長官を直接指揮監督して一時的に警察を統制するなど権力が集中している。人権制限では、都道府県知事に、医療関係者などに対する従事命令、財産権の管理使用、物資の保管命令・収用の権限、職員の立ち入り検査権が認められ、これらを罰則付きで強制している。市町村長にも、瓦礫の撤去について強制権が認められている。

(3)国と市町村の役割分担

平成27年に日本弁護士連合会は岩手、宮城、福島の被災市町村にアンケートを実施した(24市町村、回答率64%)。国と市町村の役割分担について「原則として国が主導して市町村が補助する」というのはわずか4%であり、「原則として市町村が主導して国は後方支援をすべきだ」というのが92%だった。権力集中と真逆の結果が出ている。被災地の情報が直ちに伝わり、これに最も効果的に対応できるのは国ではなく、被災者に最も近い市町村だからである。逆に国には情報が入らず、公平性、画一性が求められ妥当性を欠くことになる。熊本地震では平成28年4月14日の前震で安倍総理大臣は屋外の避難者を屋内に退避させるよう河野大臣を通じて指示したが、益城町総合体育館の職員は天井落下の危険があるので屋内に入れなかった。そして4月16日の本震で同体育館の天井が全て落下した。館内に住民が避難していれば確実に多数の死傷者が出ていたはずである。国が主導権を持つと現場にそぐわない施策が強行され、また、多数の住民が犠牲になる危険がある。国が行うべきことは、災害対策を主導するのではなく、人、物、金によって市町村を後方支援することである。

なお、市町村が機能できないときは、都道府県知事が代わって事務を実施する、市町村及び都道府県が機能せず、被災者が広域に避難したときは、内閣総理大臣が代わって実施すると災害対策基本法に定めている。このように市町村が壊滅した場合は、都道府県や国が後方支援として補完するのである。

(4)憲法が災害対策の障害にならない

一部報道が「東日本大震災で憲法が災害対策の障害になったことが明らかになった。」と繰り返し報じた。そこで、前記アンケートで「憲法が災害対策の障害になりましたか。」と質問したところ96%が障害にならなかったと回答した。なお、障害になったと回答した4%(1自治体)は瓦礫の撤去で障害になったと書いていたが、災害対策基本法で、瓦礫は所有者の同意なく撤去や破壊ができる。更に市場価値がなければ当然廃棄できる。従って、法律上障害になり得ないことは明らかである。

 

11 国会・裁判所の抑制による肯定説

 国家緊急権を肯定する説には、国会や裁判所の2権が政府を統制すれば濫用を抑止できるという意見がある。確かにアメリカの場合は、国家緊急権が何度も行使されているが大統領の独裁国家になっていないのは立法と執行との間で厳格な権力分立が機能しているからである。また、裁判所は政府に対して違憲立法審査権を積極的に行使している。トランプ大統領が中東の一部の国からの入国を禁止したところ地方裁判所は違憲であるという仮処分の決定を出している。これに対して日本は議院内閣制をとり国会の多数派が内閣を形成するので国会は政府を有効に統制できない。また、裁判所は「統治行為論」をとって高度の政治性のある行為には司法審査権が及ばないとしている。国家緊急権が発動された場合は、高度の政治性があるので司法審査ができないと判断することは確実であり政府の抑制はできない。一番大事なのは主権者である国民の意識である。アメリカはイギリスの植民地から独立した経験があり、権力に対する警戒心があって「小さな政府が良い」と考えている。これに対して日本では市民革命の経験がなく、縦社会に馴染む国民性がある。原発事故の被災者の多くがこう言っている。「国が言うから信用しました。」「国が私たちを守ってくれると思いました。」と。権力に対する警戒心はないのである。従って、政府が一旦権力を握ってしまえばこれは国民には戻らないと考えるべきである。

 

第3 64条の2(任期延長)

1 新自民党案

 「大地震その他の異常かつ大規模な災害により、衆議院議員の総選挙又は参議院議員の通常選挙の適正な実施が困難であると認めるときは、国会は、法律で定めるところにより、各議院の出席議員の三分の二以上の多数で、その任期の特例を定めることができる。」と規定する。 

 憲法は、衆議院議員の任期は4年又は解散まで(45条)、参議院議員の任期は6年と定めており(46条)、国民主権主義のもとで、主権者である国民が国会議員を自ら選択する機会を保障している。これに対して、新自民党案は、災害により国会議員の「選挙の適正な実施が困難である」と国会が認定したときに任期の特例、つまり任期延長ができるとしている。

 

2 お手盛り・任期無期限の危険性

任期延長の要件の判断の認定権者は国会であり、国会の多数派や政権を構成する会派が議員の地位を守るために濫用する危険性がある。

しかも、64条の2には、特例を認める期間の制限規定や特例が適用された後に特例を解消する規定も設けられていない。国会の多数派や政権を構成する会派などが、国会議員の任期を10年、20年に定めることが可能なだけでなく、任期を終身とするように法律によって事実上無期限に任期を延長することも可能である。

 

3 極めて広い任期延長の要件

任期延長の要件は、国会の多数派が「選挙の適正な実施が困難である」と評価することである。大災害が発生すれば通常多数の避難者が発生し、これらの者は選挙人名簿の住所地を離れるので投票所で投票をすることができなくなる。この場合、「選挙の適正な実施が困難である」と評価することは可能である。しかも、「災害」については時期の限定がないので、東日本大震災によって現在でも5万8000人が避難していることからすれれば(平成30年8月31日現在)、現時点でも「選挙の適正な実施が困難である」と評価することが可能である。

 

4 「自然災害」ではないこと

64条の2には「災害」とあり「自然災害」ではないので、武力攻撃災害も含まれる。すなわち、武力攻撃災害によって選挙の適正な実施が困難になったと多数派が評価すれば任期の延長ができるのである。

 

5 立法事実がないこと

 任期延長論は災害が発生した後に立法で災害対策を行うという考えを前提にする。しかし、前記の通り災害対策の原則は「準備してないことはできない」である。災害対策は平常時から立法等で準備すべきことである。例えば南海トラフ地震など想定外のことのために国家緊急権が必要であるとの意見があるが、南海トラフの被害は想定されており、いまのうちに時間をかけて法律を制定し、法律に従って現場での防災体制を構築することが最も効果的な災害対策である。 例えば、利便性のある平地から住民を高台に移転させることは容易ではないが、和歌山県すさみ町では、高台に病院、保育所や消防、警察等の公的施設を移転させることによって、徐々に住宅を高台に誘導している。このような地道な平時の活動の積み重ねによって効果的な災害対策が実現できるのである。「魔法の杖」のように、災害発生後に国家緊急権を発動することによって災害の問題が一挙に解決すると思うのであれば誤りという外はない。

 

6 現行の憲法・法律が整備されていること

(1)憲法の規定

 法律は衆議院と参議院が審議・議決して成立させるところ、以下の4通りの非常事態が発生しても現行憲法で対処することができる。

@ 参議院議員の任期満了後の通常選挙が災害で実施できない場合

参議院議員の通常選挙が災害で実施できない場合でも、参議院には非改選議員が1/2おり(46条)、国会の定足数は1/3(56条1項)であるから、非改選議員によって審議議決は可能である。

A 衆議院の解散後、災害で総選挙が実施できない場合

この場合、内閣は参議院の緊急集会(54条2項但書)を請求し、緊急集会は国会に代替して法律を審議・議決できるので対処可能である。次の国会開会の後10日以内に衆議院の同意が無いと法律は効力を失う(54条3項)。

B ダブル選挙のとき災害で選挙が実施できない場合

ダブル選挙とは衆議院を解散して参議院議員の任期満了の選挙と同日に衆議院議員の選挙を実施することである。この場合でも、参議院の非改選議員1/2がいるので、参議院の緊急集会を請求して国会を代替して法律を審議・議決できるので対処が可能である。

C 衆議院議員の任期満了時に災害で総選挙が実施できない場合

「衆議院議員の任期満了による選挙」は現行憲法下で1回しか実施したことがなく(昭和51年)、「選挙が困難な程の大災害」は現行憲法下で2回(平成7年の阪神・淡路大震災、平成23年の東日本大震災)しか発生していない。この「衆議院議員の任期満了による選挙」と同時に「選挙実施が困難なほどの大災害」が発生するという場合の確率は限りなくゼロに近く、そもそも立法事実がない。また、万一発生したとしても、国会が機能しないときに参議院を国会に代替させるという参議院の緊急集会の趣旨からすれば衆議院の解散の場合も参議院の緊急集会の憲法の規定を準用すれば足りる。

(2)法律の規定による対処

 更に、現行の法制度が、災害時の選挙の実施を容易にしている。

 国会議員の任期満了の選挙は任期満了の前の30日以内に行うこととされており(公選法31条、32条)、任期満了時には次の議員は既に選出されているので、このとき災害が発生しても問題は生じない。

@ 繰り延べ投票(公選法57条)

 天災等の事故で投票ができないときは、都道府県の選挙管理委員会は期日を延期できるので、災害で投票ができなくても、後日選挙を実施することは可能である。

A 法律の改正・制定による早期の選挙実現方法の工夫。

現行憲法下でも両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める(憲法47条)とあり法律で災害時の選挙を可能にする制度を創設できる。例えば、災害で選挙人名簿が失われないように地域間で情報を共有するバックアップ制を導入する、郵便投票を避難者にも拡張する等である。

 

第4 「災害をダシにして憲法を変えてはいけない。」

 本誌平成27年7月号にも書いたが、何度でも書かせていただく。災害対策で最も重要なのは現場である。目の前の被災者を救済するにはどうすれば良いかが全ての出発点である。政府にどのような権力を持たせるかが出発点ではない。災害対策は、被災者の話を聞き、被災状況を調査して課題を抽出し、将来の災害を予測して対策を講じるものである。災害直後はこの準備の下で、現場に最も近い自治体に強い権限を持たせることにより、迅速で効果的な支援が可能となる。災害を理由に国家緊急権を肯定する論者のほとんどが、被災地の現場を知らず、災害関連法規を知らず、その運用の実態を知らない。「災害をダシにして憲法を変えてはいけない。」国民は、この東日本大震災の被災者の言葉を充分に理解しなければならない。

                                以上

著者 弁護士 永井幸寿改正された緊急事態条項の危険

1955年生まれ。日本弁護士連合会災害復興支援委員会元委員長。NPO法人災害看護支援機構監事。著書に『憲法に緊急事態条項は必要か』(岩波ブックレット)、共著に『「災害救助法」徹底活用』(クリエイツかもがわ)、『トリアージ』(荘道社)


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